またひどい事件がおきて沈痛だ。…それにしても、伊藤市長、加藤議員、石井議員に対するテロに見られる、事の重大さと、暴力団構成員である犯人が自ら語る動機のトンチンカンな卑小さの、この落差は何なんだろう。効果は政治的だが動機は非政治的というのは何を意味してるんだろう。語られる動機のくだらなさが、政治テロであることを曖昧にぼかし、被害を受けた人の活動や志を侮辱していくさまがゆるせないし、やるせない。
+
靖国参拝問題で騒然としていた去年の8月、長崎の式典で、そのテンションの低さで自分の口からいずる反核言説を無化していく意図があるかのような前首相の式辞に対し、伊藤一長市長の平和宣言はとても力のあるもので感銘を受けたのを覚えてる。亡くなったあと、市長当選前は「平和行政は国の仕事」と発言していたにもかかわらず、就任後、「被爆行政に携わってきた市幹部、被爆者や市民からの熱心な働きかけ」に応え、「95年のオランダ・ハーグの国際司法裁判所で日本政府が態度を明確にしない中、<核兵器使用が国際法に違反していることは明らか>と言い切った」(朝日新聞、4/18夕刊)という記事を読んで、長崎市長という歴史的/未来的に重要なポストと真摯に向き合うことによって、世界の無理解に立ち向かう<自分の言葉>を獲得した人だったのだなあと思った。
「ご冥福を祈る」という言葉を書くのが悔しいくらいのひどい事件だと思う。かわりに伊藤市長の長崎平和宣言にリンクします。
[長崎平和宣言2006]。